10.2.14

収容

あなたは他の市民と同じように仕事をしている。悪事に手を染めたこともなく、納税者としての義務もきちんと果たしている。ところがある日、あなたは街で警官に呼び止められ、捕まってしまう。あなたは言葉も習慣も異なる10人ほどと、狭い部屋で共同生活を送ることになる。食事は配給されるが、外に出ることは許されない。こんな不条理な話が現実に起きている。それが「収容」である。収容はいつ終わるのかも分からない。「あなた」とは日本の有効な在留資格(ヴィザ)を持たないか、あるいは、その有効期限が切れてしまった外国籍市民である。

「収容」という言葉から何が連想されるだろうか。ユダヤ人や、ロマ、同性愛者などを絶滅収容所に移送したナチスの「最終解決」か。あるいは同じ頃、合衆国西海岸で「敵性外国人」のラベルを貼られた日系人の収容だろうか。全ての人間性を否定され、多くが生還することのなかった前者と後者の間には明らかな違いがある。しかし、「その人が何をしたか」ではなく、「その人が誰であるか」が争点となっていることが、この二例と、現在、世界各地でイシューになっている移民や非正規滞在者の取扱いを繋いでいる。移動、居住、労働の自由を国内で、あるいはEUのような域内では保障するが、国境の向こうから来た外国人には保障しないという政策は、全ての人間が同じ権利を有するという「人権」の理念に反しないか。

 さらに日本では、ヴィザを持たない難民申請者が、仮滞在などの救済制度が適用されないまま、収容されてしまうことがある。そもそも日本では、難民の認定率が極めて低い。国や年度、また比較の方法によっても幅がでるが、他の先進国では20%から50%ぐらいの認定率が、日本では1%にも満たない。日本も加盟している国連の難民条約では、難民を「迫害を受けるかあるいは迫害を受ける恐れがあるために他国に逃れた」人と定義している。迫害を恐れて難民申請する人が、日本のヴィザを持っていないことは十分に考え得る。

 私は、面会支援をおこなっている人権団体の活動に参加して、ゼミの学生と共に、法務省入国管理局の収容施設を訪れる機会を得た。そこで出会ったのは、日本人の配偶者がいても偽装結婚を疑われてヴィザをもらえないフィリピン人から、民族の弾圧が出国の主要動機となったクルド人までさまざまであったが、日本で暮らすこと=犯罪として、その人たちに社会生活を認めず、家族からも切り離して「収容」することには強い疑問を持った。入国制限を緩めれば移民が急増して社会が混乱に陥る、という主張も理解できる。しかし、自由を奪って閉じ込めることが、人の精神をどれほど傷つけるかを想像して欲しい。入国管理の対象である前に、その人たちは人間であるのだから。

 

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