19.9.13

多様性について(続)


多様性について(続)

I pledge allegiance to the Flag of the United States of America, and to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all.

 

2年生の必修科目「トランスナショナル文化論」が終わりに近づいた7月上旬、2週連続して授業後に簡単なコメントを書いてもらったのだが、日本単一民族神話の刷り込みの深さに驚き、恐ろしさを感じた。

 

一回目はアメリカ合衆国の「国旗への忠誠の誓い」をどう捉えるか尋ねたのだが、学生諸氏の多くは、これを国民統合のパフォーマンスとして肯定的に評価していて、「日本にもこのような儀式を導入すべき」と提案した学生も少なからずあった。

 

「誓い」は、出自を異にする移民の混合である合衆国市民の思想と言語を統一する「国民創生」の装置として、1892年にフランシス・ベラミーによって「発明」されたものだ。1892年といえば、コロンブスのアメリカ「発見」400周年にあたり、翌1893年にはコロンブスの名を冠した万博がシカゴで開催され、「大国」としての合衆国の位置が強調された。歴史家フレデリック・ジャクソン・ターナーが「アメリカ史におけるフロンティアの意義」を発表したのもシカゴ万博においてである。しかしターナーが独立精神や民主政治の源泉と主張したフロンティアは事実上消滅しており、東部の工業都市には、東欧や南欧からの移住労働者たちがイナゴの群れのように押し寄せていた。移民たちの上陸審査地点としてエリス島がフル稼働を始めた時期でもある。「誓い」がこうした非WASP住民の「同化」に果たした役割は少なくない。

 

(余談だが、先日、学会でスタンフォード大学を訪れる機会を得た。シリコン・バレー中心に位置するこの全米屈指の有名私立大学は、大陸横断鉄道建設事業で財をなしたリーランド・スタンフォードが1891年に創設している。鉄道建設に安価な労働力として利用された中国からの移民が鉄道完成後の1882年に「中国人排斥法」によって断たれたことや、フロンティアの西漸(鉄道建設はその中核にあった)が先住民の土地や生活を奪っていったことを、美しく広大なキャンパスを訪れる者の脳裏を掠めることは稀であろう。)

 

考えたいのは、同化(統合や包摂という言葉でトーン・ダウンされている場合を含め)という発想が、文化の純粋性の外部に存在する他者の排除に他ならない、ということだ。日本に暮らす外国籍住民は(法務省がカウントする正規在留資格を持つ人たちだけでも)既に200万人を超えている。さらに国籍は日本でも、朝鮮、琉球、アイヌモシリなど、(日本版WASPを形成してきた)ヤマト以外の民族的出自を持つ人々は多い。また、国際結婚で結ばれた家族や、海外での在住期間が長い人など、ルーツやさまざまな絆を日本の外側にも持つ人も増加している。また私のように、日本のパスポートを持っていても「日本人」というカテゴリーで一様に括られることに、どこかしら居心地の悪さを感じてしまう人間もいる。

 

「国旗へ忠誠の誓い」の日本版を日本の学校で実施しようと提案した学生諸氏に尋ねたいのだが、「誓い」はヤマト民族以外の、つまり日本版非WASPの人たちにも強制されてしまうのだろうか。「誓い」のパフォーマンス性による「多数の統一(E Pluribus Unum)」ではなく、複数の民族、宗教、言語、思想、性的指向などの差異を尊重し合う、多様性を軸とする共同体を目指すべきだ、というのが私の主張である。

 

合衆国を真似て国旗への誓いを始めるとすれば、誓いの対象は「日の丸」になるのだろうか。日の丸は意匠としては古いかもしれないが、国旗として使われたのは、日本という国家が樹立された後のことであり、明治政府による「発明」である。一方、日の丸の下に思想や発言の自由を奪われ、強姦され、強制労働に駆られ、暴行、強奪、そして殺害された人は数知れない。あの旗への「誓い」を繰り返すことで、純粋で美しい、モノカルチュラルな日本を「発明」しよう、という提案には同意できない。

 

さて、学生諸氏に翌週尋ねたのは、「文化の純粋性」について、パフォーマンス研究者のリチャード・シェクナーが書いている以下の文章についてである。

 

Cultural purity is a dangerous fiction because it leads to a kind of policing that results in apparent monoculture and actual racism, jingoism, and xenophobia.

 

まず、学生諸氏の多くが文化はフィクション(虚構、作り事)である、という点を見落としていた。さらに「文化の純粋性は危険だ」という著者の断定を受け入れることに抵抗を感じている。パターンとして一番多かった解答は、「文化の純粋性は、人種差別、盲目的愛国主義、外国人嫌悪に結びつく可能性があるがゆえに危険である」としたパラフレーズで、自分の意見に合わないところはカットしている。日本の状況に当てはめて、「日本文化の伝統を守ることは大切だが、純粋性を強調しすぎると異文化理解を阻害する」とした解答も多かった。これは一般的な「文化」という単語の用法が、「日本文化」「フランス文化」のように国名と抱き合わされているので、国民文化、民族文化の単一性や同質性を「当たり前」と受け止めてきた結果であろう。「想像の共同体」や「伝統の創造」といった概念について、授業中により多くの時間を割いて説明しておかなかった点が悔やまれる。

 

学生諸氏は、「見かけ上の単一文化を形成する監視の役割」という箇所も飛ばしてしまう。文化純粋性の維持に不可欠な監視・検閲装置としての、学校、職場、家庭、(そして昔ほどは強固ではなくなったといえ、町内会、消防団、氏子などの社会組織)、ユビキタスに存在する監視カメラをはじめ、入国時の指紋登録と在留カードがセットになった外国人管理や、着々と導入の進む国家による個人情報の一元管理制度などは気にかからないのだろうか。

 

こうした監視機構により作りだされるのは、ジョージ・オーウェルの『1984年(1949)』やオルダス・ハクスレーの『素晴らしき新世界』などの近未来小説に描かれた監視社会である。ピーター・ウィア監督の映画『トゥルーマン・ショー』も同じ類の監視社会を描いているが、本人が管理の対象であることに気づいていないところがより現代社会に近い。「文化の純粋性」という表現にナチスの優生思想を見出した学生もいたが、残念ながら少数派であった。

 

私が繰り返したい点は、純粋文化、つまり多様性を伴わない文化など、どこにもありはしないこと、また同一民族、同一言語という単一文化の神話を維持するには、他者の排斥という暴力を発動させなければならないことである。民族や母語を異にする人びとの出会いの場が増え、地球のさまざまな場所を巡りつつ人生行路を歩むことが珍しくなくなっている今、分離壁を建設して全ての国境線を防護したところで、自分たちの文化だけを壁の内側に閉じ込め、外部とのやり取りを遮断することは不可能である。境界とはどのような形のものであれ、相互に浸透性を持つメッシュのようなものだ。

 

「単一文化の神話」は「見かけの同質性がもたらす安心感の神話」と言い換えてもよい。「以心伝心」というが、どれだけ長い年月連れ添ったパートナー同士でも、相手を完全に理解することはできないと思う。たしかに、異質な価値観を受け入れるには努力と忍耐が必要で、時には摩擦や衝突も起きるだろう。しかし、他者との邂逅による傷つきやすさを恐れないことだ。「見かけの同質性」よりも「多様性」を希求することで、創造的で刺激的な、マイノリティを捨象することのない文化が生みだせるのではないか。

 

 

 

0 件のコメント:

コメントを投稿